「月1会」3月度月例コンテスト「春眠」の優勝者が決定しました。
優勝はfine-viewさん。おめでとうございます。作品はこちら。
今回はテーマに対して私もどういったものを撮ろうか相当悩みました。そして参加者皆さんの写真を見て、ビックリというか、そう来たか!って感じでした。投票にも困りましたね。一応今年から一人2票までと決まりましたので、以前のようにいいと思うものにどんどん投票するということができません。結果、私はTsukanetさんとcarimamuさんに投票しました。Tsukanetさんの作品は私が考えていたものと狙いが同じで、アップされたのを見て「やられた!」って思いました。狙いは同じでもこういった作品を作れたか分かりません。carimaruさんの作品は「春眠」に対して既に寝ているところではなく、眠りに誘うものとして表現されました。それは春に限らないじゃないかとも言えますが、画質と相まってとても春らしく感じられました。
fine-viewさんの優勝作品ですが、もう1票入れることが出来たならきっと入れていたと思います。
この作品は色々気づかされます。写真は確かにその瞬間だけを写すのですが、そこまでの過程は必ず存在していて、今この状態になるまでのこと、それからこれからどうなるのかといったことまでが想像することは本当は可能です。私の場合、花を見て花があるとだけ思ったかもしれません。が、花が咲くにはそこまでの成長があり、つぼみであれば咲くときがくるということです。次の段階への成長のために今の状態を眠りと表現し、力を蓄えていると捉えたその感性は素晴らしいと思いました。
過去・現在・未来を思わなければ、二つの花がともに咲いているところを撮ったかもしれません。つぼみの姿も撮るということは、被写体の持つ時間を深く愛しているということだと感じました。その時その時の画面作りに汲々としているのでは撮れないものだと思います。
「この先」をも感じさせる作品なので、キャプションにより見方の方向が示されていますが、仮に「春眠」のタイトルだけであったとしてもそれほどブレずに見ることが出来たのではないでしょうか。
写真展、無事終了しました。
来場していただいた方々、応援して下さった方々、ありがとうございました。
展示に向けて写真の選択にはいろいろ悩みましたが、終わってから見直すと、確かに画像の見た目は前回と大きく変わっていますが、撮る気持ちに大きな変化はなかったのだなと思いました。
なんとなく感じていたことが、展示をすることによって、また来場者や一緒に出展した人たちと話してはっきりした部分もあります。再度展示に参加するかどうか分かりませんが、撮り続けるのは間違いありません。
はっきりした分、撮るのが楽しくなりそうです。
5月1日から写真展が始まっています。
その初日に写友さんが来てくれて話をしました。
いつも分からないことはこの人に訊けと思っていて、今回も日頃疑問に思っていることをバンバン訊いちゃいました。もちろん写真展の出品作についてもコメントをいただき、「そうか!」と気づかされることもたくさんありました。
以前にも書きましたが、写真展というものを私はよく分かっていません。写真展よりも写真集のほうが面白いと思っています。写真展に参加しないかと誘われた時に「私ごときが」という気持ちがなかった訳ではありませんが、せっかくのお誘いですし、この機会にちゃんと考えようと思いました。
写真展をやるには決めなきゃいけないことがたくさんあります。今回はその多くを幹事役の方がやってくれました。会場決めやDMの作成、ギャラリーとの打ち合わせなどなど。私は基本的に作品を持って行くだけでいい状態でした。それでも決めなきゃいけないことはたくさん。
どの写真を出すのか、何枚出すのか、額にするのかパネルにするのか、それとも直貼りか。マットの色は、写真の焼き具合、サイズ…。お客さんのあることですから、出来るだけのことはしようと、自身の経験や他の写真家の写真展などを参考にしながら決めて行きました。
写真のセレクション基準がだいたい決まったところで、実際選んで行った訳ですが、なんとなく違和感があるというか、ピンとはくるけど、バシッとこないというか。もちろん、自分ではいいと思って選んでいますし、出来もそれぞれは悪くないように思っていました。ちょっとだけもやもやというところです。しかしそのもやもやの理由も友人と話して理解できました。なんだか目の前すっきり。力不足もはっきりですが。
私の立ち位置は写真展に対して否定的な見る側と、その写真展に出品している見られる側。その上で写真展について思うのは、「やったほうがいい」です。
見る側の私はいわば作品至上主義で、写真が良くなかったら意味ないぐらいに思っていました。では見られる側としてはどうかというと、「写真なんかいいから、飲みにいこうぜ」です。
プロと違いアマチュアの場合、お客さんの多くはもともと知り合いです。ですが、その中にはネットを通じての知り合いもたくさんいます。誰だかは分からないけど、写真は知っている。実際、一緒に展示をしているメンバーとは全員ネットを通じて知り合いました。今回現場で初めて会う方もいました。
ネットとはいえ、写真を通して知り合っていますから、「写真なんか」といって飲みに行っても写真の話にはなります。これがめちゃめちゃ面白い。鋭く厳しい批評も受けますが、それでもいい。
本末転倒な締めで申し訳ないです。でもでも、写真展は終了時間からが面白い。
見てきた写真展について思うことをつらつら書いてみましたが、あんまり面白くもないのでやめておきます。
大人数で一つの作品という形式はどのようにしたらいいのか。私には分かりません。写真展を多く見ている人にその辺を訊いてみたいところです。
自分の参加する写真展は明日搬入です。京都に行ってきます。
カラーはもうやめようかと書いておきながら、早速カラーです。やっぱり上手く撮れないので、がっかりです。
桜の写真を今年はたくさん撮ろうと思っていました。特別な理由はないです。去年あまり撮らなかったからかな。たくさん撮ると飽きてくるから去年は撮らず、今年はその分撮る気になったのかもしれません。
世の中には多くの桜の写真がアップされ、私も拝見しました。全く同じ写真ということはないですが、印象はどれも似たものになってしまいますね。自分も色々チャレンジしてみましたが、難しいです。ポジもやればよかったかなぐらいは思いますが、相変わらずのネガカラーですし、モノクロも撮りました。月1会の月例のほうにはモノクロで提出しました。
月1会の月例の話を出したので、ついでに言い訳しておきます。
今回のテーマは「春眠」です。寝姿にしようか、暖かい陽光でもいけるかなどと考えていたのですが、自身の展示のこともあり、ゆっくり考えて撮ることが出来ずにいました。とりあえず、春眠と言えば「春眠暁を覚えず」ですから、元ネタにあたっておこうかと。ネットで見るだけですけどね。すると、もともとは
春眠不覺曉 處處聞啼鳥 夜来風雨聲 花落知多少
こういう詩のようです。
ちょうどいい具合にといってはなんですが、満開を過ぎた頃、雨が降り花が落ちました。ならば、散る花びらでもいけるかと思い、いくつか撮りました。その中からいいのがあればそこから出そうかと。しかしながら、現像上がりを待つ間に他の方により落花の写真がアップされ、しかもその写真に敵うものが現像上がりの自分の写真にないという事態になりました。正直、困りました。
そこで当初予定していなかった写真を提出することにしました。それを見ても「春眠」ちゃうやんと言われるかもしれませんが、光、桜、学生、散り敷かれた花びらというところで春らしく、また「花落知多少」の感じも出るかなと考えました。要素が増えて逆にテーマに対しては薄まったかな。
言い訳はこのぐらいにして、最近某大学写真部の写真展を見に行ってきました。自分が写真展に参加するということもあり、「写真展」というもの自体が気になっています。私のほうは幹事さん(でいいのかな)が面倒なところはすべてやってくれて、私はテーマ(といっても大枠)に沿った写真を選んで持って行けばいいだけなんですが。
感想について書き始めたのですが、長くなりそうなので、次回。
月1会で提出された課題「静物」以降、
目に見えているものそのものとしての意味だけでなく、
何か別の意味を暗示していることもあるということを知り、
とても気になっている。
もちろん撮っている人は意識していないことの
ほうが多いのかもしれないが、
似たような写真を見る度に何か別の意味があり、
また撮らざるを得ない何かがあるのかも
などと思うようになった。
例えば、自分の足元を写す人がいる。
私は撮ったことがない。
他人の足元なら、ある。
「自分の」足元にはどんな意味があるんだろう。
見ている側はどんなことを思うのだろう。
これまでは単に「流行りだから」とスルーしていた。
せいぜい足が長いとか、細いとか靴がかわいいとか
そのもの自体への感想程度しかなかった。
今一度、そういった写真を見た時に何を感じるのかを考えた。
・行動力
・お洒落
・自信
・外向性
こんなところか。
確かにあまりネガティブな印象はない。
もちろん過剰な場合は、反作用が起こる。
このことは私だけの感覚なのかもしれない。
多くの人にアンケートでも取らないと
私だけなのかどうか分からない。
そんなことやる気もないし、
Don't think, feel と言われそうだ。
でも知りたい。
思いついたのは夢判断。
こちらのサイトを参考にすると、
足,脚,foot,leg
積極性の象徴
行動力の象徴
ベース・基盤の象徴
計画・目標の象徴
自信・勇気の象徴
自己評価の象徴
健康状態・心体状態の象徴
バランスの象徴
遠出・旅行の暗示
とある。
案外自分はズレてないのかも。
自分の足は「足」というだけでなく、
積極性や行動力を表しているとすれば、
それを写真に示す人は
自分はそういう人間ですと表明することであり、
写真を見た人はその要素に感化され、
自分もそのようになろうと思う、のか。
確かに私もどっか撮りに出かけようと
思ったりしないでもない。
体のパーツについては
色々思うことがあるのだが、
それはまた後日。気が向いたら。
グループ展に参加します。
今回もモノクロ縛りです。
また京都です。
『 朧 (おぼろ) 』
galleryMain3F
5/1(火) - 5/6(日) ※会期中無休
13:00-20:00 (最終日18時迄)
詳しくはこちら。
期間がゴールデンウイークなので、
私は初日と最終日にしかギャラリーにいれません。
申し訳ないです。
何を出そうか色々考えて、
京都に行った時に撮ってみたんですが、
出来上がりを見てほぼボツにしました。
結局割とベタな構成にし、
焼いてみました。
プリントすることは楽しいのですが、
見極めが難しい。
ここらへんでいいのか、イマイチなのか。
悩ましいところです。
今の時点でやれることはやったので、
見てもらってアドバイスをもらうというのも手ですかね。
以前にモノクロ展に参加した時もそうだったのですが、
他の参加者のプリントを見てショックを受けるんだろうな。
参加したからこそ気づけることってあるんだよなぁ。
カメラバッグがいかれてきた。
もともと在庫処分の安物だけど、
小さいサイズがちょうどよかった。
上開きだしね。
見た目はダサい。
カメラをストラップで首から下げるのは
ブラブラするから好きじゃない。
鞄に入れておいて、さっと取り出す。
そのためには上開きがいいんだよね。
これを期にちょっといいバッグにしようかな。
革製とかいいけど、重くなるんだよな。
ネットでいろいろ探してはいるけど、
なかなか思うようなのが見つからない。
惜しいのはあるんだけなぁ。
革製のを買って、
ショップに持って行けば改造できるかな。
月1会の2月度テーマ「廃棄物」の優勝者が決定しました。
rin_nosukeさん(作品),tae02さん(作品),stonemuteさん(作品)のお三方が同票で並び、
じゃんけん決着の末、stonemuteさんの優勝となりました。おめでとうございます。
お三方とも素晴らしい作品でした。
優勝作品は大きなボケ、重めの発色といったカメラやフィルムの特性を
遺憾なく発揮させるとともに、テーマに対して単にゴミといったものでなく、
モノを通して感じる世界がありました。
月例コンテストは回を重ねるごとにレベルが上がっており、
票を獲得することすら難しくなってきました。
レベルうんぬんももちろんですが、
よく考えて撮らないとやっぱりダメですね。
今回は反省しきりです。
私はというと、arata会長、fine-viewさんに投票しました。
会長の作品はメインとなる廃棄物だけでなく、
その周辺まで写されており、そこがポイントでした。
どうしてもこのテーマになると、モノ自体に目が行きますが、
周辺も含めたところにモノとしての存在があるのではないかと。
どんなものでも単体で存在しているのではなく、
世界と繋がっているのだと感じました。
一方、fine-viewさんの作品ですが、
これはやられたなと思いました。
廃棄物というと、やっぱり汚いとか古い、いらないものという
イメージがまず浮かぶと思いますが、
この作品は捨てられているゴミには違いないのですが、
思わずクスリとさせられました。
以下、妄想、ジョークです。
一番に目につくのが、「ハートどろぼう」。
ハート泥棒と言えば、我々世代としては
『カリオストロの城』におけるルパン三世です。
ラストの銭形警部の「奴はとんでもないものを盗んでいきました」で
始まる台詞はもうがっちりと刷り込まれています。
クラリスにとってルパンは愛する人な訳で、
その愛する「ハート泥棒」が捨てられる。
つまりは別れを思わせます。
箱が2つあるということは、長い付き合いだったのか、
それとも二人いたのか。
また、その箱の上にさらにゴミが積まれているということは
決断はそのゴミよりも先に行われたということであり、
おそらく躊躇なくであったと思われます。
女性のドライな割り切りを感じたことが面白く、
「廃棄物」という、今まで持っていたイメージを
あっさりと覆され、それは単なる思い込みであり、
当たり前のことは当たり前ではないという
ことを改めて感じさせられたのでした。
昔よく聴いたアルバムが不意に聴きたくなって
CDを探し、iPhone に入れた。
Bruce Springsteen の『Born in the U.S.A.』は当時すごく売れてた。
そこから遡って『Born To Run』や『The River』、『Nebraska』なんかを聴いてた。
当時はまだレコードだったけど。
No Music, No Life ってほど音楽好きじゃないけど、
iPhoneには既に何十枚もアルバムが入っている。
レコードからCDになり、MP3プレイヤーになった。
手軽に聴くことが出来るようになり、
場所を選ばずどこでも聴け、膨大な量を持ち歩ける。
けど、手軽になりすぎた気もする。
昔は一枚のアルバムを何度も聴いたし、
少なくとも各曲のタイトルは覚えた。
今はそのタイトルすら覚えられない。
どっちが幸せかは分からない。
でも一枚のレコードがとても大切だったのは間違いない。
ひところ、『津軽海峡・冬景色』の歌詞がネットで話題になっていたことがある。
その歌詞には情景描写しかないというものだった。
言われてみればそうだなと思いつつ、
あれだけ聴く側の感情面を刺激する曲の歌詞が
情景描写だけなんてとすごいことだと思った。
もちろん、曲は短調なわけだし、
気持ちを揺り動かす言葉が選ばれ、並んでいるのだとは思うけど、
直接的につらいとか悲しいとか言っているわけではない。
写真も情景描写だけなんだけど、
感情を揺り動かすことだって出来るんだろうなと改めて思った。
これまでにそういう写真、実際に自分の
気持ちを揺り動かされるような写真を見たことがある。
ある種のポートレイトだったけど、
写っている人の感情なんて写らないし、
ましてや撮っている人の感情なんて写りっこない。
でもこちらの感情は波立ち、動揺した。
そういうことが出来るんだなぁ。
写真にとって何が短調にあたるのか、
歌詞は何か、声質はなんだと
各構成要素について検討してみるのも面白い。
簡単に答えが出るものではないけれど、
考え事の材料としては楽しめる。
それにしても、石川さゆりさんの声はいいな。
『愛燦燦』は多くの人がカバーしているけど、
この人のが一番好き。
もちろん曲の完成度としては美空ひばりさんが
ダントツなんだろうけどね。
美空さんのは人間の業までも感じさせるものだけど、
石川さんのはまるで新婚の奥さん、あるいは付き合い始めの彼女が
台所で料理を作りながら、思わず鼻歌で歌ってしまったかのような
軽やかさと幸福感がある。
ビクター犬として有名だけど、名前はニッパー。
動物写真は難しいですね。
犬猫の写真はたくさんネットでも見ることが出来るけど、
基本は擬人化の程度なんですかね。
人間がやるような仕草をしてるとかわいいとか。
猫は単体で擬人化しやすい被写体なような気もします。
数多ある猫写真でも、この擬人化の程度により受ける印象が違うのかもしれません。
じゃあ犬はというと、単体では弱い気がするんですよね。擬人化が。
エリオット・アーウィットの写真集に『Dog Dogs』ってのがあるんですけど、
描かれているのは、人との関係性だと思うんですよ。
犬は人と関係することで、擬人化しやすくなるというか。
ニッパーも蓄音機から流れる亡くなった前の飼い主の声に耳を傾けています。
だからこの姿が愛おしく見えてくるような気がします。
そういえば、HMV が His Master's Voice の略だと知った時は
「へ〜」と思ったものでした。蓄音機だからね。
このカメラでは好きな画角である35mmを持っていない。
評価が高いのか、いまだにそこそこの値段がするし、
タマ数も少ない。
コニカマウントはアダプターで他社のフィルムカメラで使うってことが出来ない。
ということは、昔からコニカを使っている人が大事に持っているんだろうな。
そして時代はミラーレスになってようやくアダプターで使えることになった。
おかげでますます価格が下がらない。
高いといっても最新のレンズに比べれば大したことないんだけどね。
それはともかく。
このカメラでいわゆる標準レンズと言われるあたりを使っていて、
他のカメラの標準レンズも気になってきた。
レンジファインダー用のレンズが特に。
今、いいなぁと思っているのは、
Voigtländer NOKTON 50mm F1.5だ。
大昔に作られたものでなくて、
コシナで作ってたやつ。
大昔のほうはすごい人気があり、かつレア。
めっちゃ高い。
で、コシナのほうはすでに製造終了。
今はF1.1が作られている。
高性能好きとしてはF1.1に行きそうだけど、
写りはF1.5のほうが好き。
コシナはいい仕事してんなぁ。
この半年ぐらいか、他の写真ブログにコメントをあまりしていない。
他のブログを見ていないわけではなく、
更新されるたびに拝見している。
このブログにコメントをしてくれる方もいる。
とてもありがたいことだ。
ご無礼をして申し訳なく思うともに、
お返しのコメントをしようとしても手が止まってしまう。
拝見する写真が力を持っていないかというと、そんなことはない。
むしろ何かしら琴線に触れるような、力が強いものほど手は止まる。
心動かされるような写真に対し、出てくる言葉は実は一つしか持っていない。
そのことに最近気づいた。
写真を見てなぜそう思うのか、自分でいろいろ言葉は並べてみる。
が、安っぽい言い換えのような気がするし、
どんどん自分の思いから離れていくような気もする。
結局、私は何も分かっていないということなのか。




















